訪問者5千人突破記念企画第二弾ッッ!!春画が遺したもの
前回拍手コメントをくださったmarronさん、いつもありがとうございます(^-^)

浮世絵を棄てた日本人が得たもの、失ったもの
悪名高い天保の改革で春画はことごとく押収されたが、明治維新以降明治政府も春画を禁止にした。
天保の改革で虫の息だった春画に明治政府がとどめを刺したといってもいいだろう。
現在お上はまた同じことをしようとしている。お上がクソなのは天保の改革からも明治維新以降からも変わっていない。
明治維新以降、日本人は何を得て何を失っただろうか。
明治維新以降、日本人は便利な生活を得たが、同時に情緒や風情を失ってしまったように思える。
新しい印刷技術が入ってくると同時に、日本人は浮世絵を棄ててしまった。
新しい印刷技術に、浮世絵のような情緒や風情は感じられない。
現在でも細々と版画が作られてはいるがあくまでも美術品である。日本人がグラビアのように鑑賞する大衆文化としての浮世絵は19世紀の終わりとともに終焉したといってもいい。
明治維新以降、日本には西洋から輸入された「芸術」という概念が生まれたが、皮肉なことに日本人は「芸術」という言葉を得た時点で、浮世絵という「芸術」を棄ててしまった。
「芸術」という言葉が生まれた時点で、日本では「芸術」は過去の遺物になってしまったのである。
戦後日本の現代アートなど所詮は西洋芸術の真似事である。あんなものなど芸術と呼ぶには程遠く離れたゴミクズに過ぎない。
ゴミクズを粗製乱造してる現代アートなどへそで茶がわくレベルである。

思えば、明治維新以降の日本人はこれまで身に付けていた日本文化を脱ぎ捨て、西洋文化を身に付けたはいいが、身につけた西洋文化の違和感と脱ぎ捨てた日本文化の欠落を抱えたまま欧米列強に立ち向かったものの、欧米列強に敗れ、今に至るように思える。
春画展が盛況だったのも、日本人がかつて脱ぎ捨てた情緒や風情の欠落を埋めたい日本人がそれだけ多いからに他ならない。
春画は明治維新以降日本人が棄てた、情緒や風情の集大成である。

思えば自分が絵を描きはじめた高校時代は、当然のことながら周りは全員アナログでデジタルで描いてる絵描きなどひとりもいなかったが、今やデジタル絵全盛で、今やアナログ絵は風前の灯である。
イラレもフォトショも使い方がろくにわからないロートル絵描きの自分は、ペンタブを自分の手足のように使いこなす若い絵描きを指をくわえて見ているが、アナログがデジタルに駆逐されるように、浮世絵も新しい印刷技術に駆逐されたということは往々にして想像がつく。
デジタルにはアナログのような情緒や風情は感じられない。
最近では地方は画材店が相次いで閉店してるため、デジタルに移行したという話も聞くが、この分ではアナログで絵を描けるのは都内の人間の特権になる日もそう遠くはなさそうである。
実際イラストレーターの大半は都内に集中している。
そういえば、自分も住んでるのは都内だが、近所には画材店が無いので、画材は年に何度か新宿の世界堂でまとめ買いをしている。
猥褻か芸術か問題はアナログ時代からあった問題だが、デジタル時代になってからも、児ポ法などで再燃化している問題である。
こうゆう問題で、法律なんだから仕方ないじゃんというのは完全な思考停止である。
法律なんだから仕方ないなら、何故刑法200条が六法全書から削除されたのか考えてみればいい。
法律なんてお上の都合でどうとでも変えられるものである。
春画が遺したもの。
それはその性表現が猥褻か芸術かという永遠の課題である。

浮世絵を棄てた日本人が得たもの、失ったもの
悪名高い天保の改革で春画はことごとく押収されたが、明治維新以降明治政府も春画を禁止にした。
天保の改革で虫の息だった春画に明治政府がとどめを刺したといってもいいだろう。
現在お上はまた同じことをしようとしている。お上がクソなのは天保の改革からも明治維新以降からも変わっていない。
明治維新以降、日本人は何を得て何を失っただろうか。
明治維新以降、日本人は便利な生活を得たが、同時に情緒や風情を失ってしまったように思える。
新しい印刷技術が入ってくると同時に、日本人は浮世絵を棄ててしまった。
新しい印刷技術に、浮世絵のような情緒や風情は感じられない。
現在でも細々と版画が作られてはいるがあくまでも美術品である。日本人がグラビアのように鑑賞する大衆文化としての浮世絵は19世紀の終わりとともに終焉したといってもいい。
明治維新以降、日本には西洋から輸入された「芸術」という概念が生まれたが、皮肉なことに日本人は「芸術」という言葉を得た時点で、浮世絵という「芸術」を棄ててしまった。
「芸術」という言葉が生まれた時点で、日本では「芸術」は過去の遺物になってしまったのである。
戦後日本の現代アートなど所詮は西洋芸術の真似事である。あんなものなど芸術と呼ぶには程遠く離れたゴミクズに過ぎない。
ゴミクズを粗製乱造してる現代アートなどへそで茶がわくレベルである。

思えば、明治維新以降の日本人はこれまで身に付けていた日本文化を脱ぎ捨て、西洋文化を身に付けたはいいが、身につけた西洋文化の違和感と脱ぎ捨てた日本文化の欠落を抱えたまま欧米列強に立ち向かったものの、欧米列強に敗れ、今に至るように思える。
春画展が盛況だったのも、日本人がかつて脱ぎ捨てた情緒や風情の欠落を埋めたい日本人がそれだけ多いからに他ならない。
春画は明治維新以降日本人が棄てた、情緒や風情の集大成である。

思えば自分が絵を描きはじめた高校時代は、当然のことながら周りは全員アナログでデジタルで描いてる絵描きなどひとりもいなかったが、今やデジタル絵全盛で、今やアナログ絵は風前の灯である。
イラレもフォトショも使い方がろくにわからないロートル絵描きの自分は、ペンタブを自分の手足のように使いこなす若い絵描きを指をくわえて見ているが、アナログがデジタルに駆逐されるように、浮世絵も新しい印刷技術に駆逐されたということは往々にして想像がつく。
デジタルにはアナログのような情緒や風情は感じられない。
最近では地方は画材店が相次いで閉店してるため、デジタルに移行したという話も聞くが、この分ではアナログで絵を描けるのは都内の人間の特権になる日もそう遠くはなさそうである。
実際イラストレーターの大半は都内に集中している。
そういえば、自分も住んでるのは都内だが、近所には画材店が無いので、画材は年に何度か新宿の世界堂でまとめ買いをしている。
猥褻か芸術か問題はアナログ時代からあった問題だが、デジタル時代になってからも、児ポ法などで再燃化している問題である。
こうゆう問題で、法律なんだから仕方ないじゃんというのは完全な思考停止である。
法律なんだから仕方ないなら、何故刑法200条が六法全書から削除されたのか考えてみればいい。
法律なんてお上の都合でどうとでも変えられるものである。
春画が遺したもの。
それはその性表現が猥褻か芸術かという永遠の課題である。
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