100回突破記念企画第二弾ッッ!!続・アウトサイダーアート宣言ッッ!!
枠から締め出される発達障害者
枠に押し込められる発達障害者

今回の記事は前回の続きみたいなもんである。
本当は前回の記事で、いいたいことは全部言い切ったつもりではあったが、新たな疑問が生じてきたので、今回はそれを書きたいと思う。
要するに出産の後産みたいな残りカスみたいな記事と思ってもらえばいい。
前回は怒りに任せて勢いで書いてしまったが、今回はイカレた頭を冷やして(冷やしてもイカレた頭は治らないが)、何故善意の健常者と発達障害者の間に、齟齬が生じるのか、自分なりに考えてみた。
善意の健常者は、犯罪者や障害者などの社会不適応者が作った創作物が、所謂アウトサイダーアートと扱われ、インサイダーアートから締め出されるのは、健常者の傲慢ではないかと主張する。
一方の、作業所ですら馴染めない、社会不適応者の発達障害者である自分は、普通の枠に収まらない社会不適応者を、無理矢理普通の枠に押し込めるのは、健常者の傲慢だと主張する。
善意の健常者のいってることは、定型発達者中心の一般社会においては、正論なのだろうと思う。
しかし自分は一般社会に適応して生きる定型発達者ではない。
社会の枠組みからは完全にドロップアウトしている、作業所にすら馴染めない、社会不適応者の発達障害者である。
要するにヒャッハーしてる連中と同じくらい、社会不適応者だと思ってもらえばいい。

一般社会に適応できる定型発達者の善意は、一般社会に適応できない、社会不適応者の発達障害者にとっては、ときに無理解な善意の押しつけになることもある。
自分が反発したのも、恐らく相手の善意を、無自覚な無理解な善意の押しつけとみなしたからではないかと思う。
社会的強者は、自分の善意が社会的弱者から受け入れられないと、いきなり恫喝的な態度に豹変するが、社会的弱者から見れば、ヤクザの恫喝と何ひとつ変わらない。
社会的弱者には、社会的強者の善意を無条件に受け入れなければならない、社会的義務はどこにも無いのである。
自分にとっての普通とは、シンデレラのガラスの靴のようなものである。
原典のグリム童話では、シンデレラのガラスの靴が入らなかったふたりの姉は、指をチョン切ったり、かかとをチョン切ったりしてまで、ガラスの靴を履こうとするわけだが、まさにこれは自分の考える普通に他ならない。
よしんば靴が入ったとしても、シンデレラはガラスの靴を壊さないように、生きていかなければならないのである。
自分の考える普通とは、壊れやすく尚且つ壊れたら、その破片で自分を傷つけるガラスの靴である。
ディズニー版シンデレラではそのような残酷描写はオミットされているが、好意的に考えれば、そこまでして普通にこだわることもないんじゃないかという、時代の変遷とも見て取れる。
アウトサイダーアートは、犯罪者や障害者などの、社会不適応者が作った創作物の総称である。
だから汚部屋や過食嘔吐やリスカなども、記録画像や記録映像を撮っておいて、パフォーマンスとして発表すれば、それもアウトサイダーアートになる。
正直芸術かどうかも怪しい代物である。
正直大半のアウトサイダーアートは、その辺のおばちゃんが作った、もっさりした手芸品と変わらないからである。
その辺のおばちゃんが作った手芸品は所謂オカンアートと呼ばれてるが、大半が「いやげもの」と呼ばれる、生活空間の破壊力抜群の、ある意味最も現代アートに近いものと思われる。
オカンアート(一例) 呪いの人形?


キティちゃん?

ピカチュウ?

オカンアートの条件は、オカンが作った手芸品なら無条件にオカンアートとして認定される。
これらオカンアートが正規の芸術として認められなくても、論争になることはない。
ある意味最もお仕着せの芸術から、かけ離れた場外乱闘アートともいえる。
あまりにも身近過ぎて芸術評論の俎上にすら上がることはない。オカンは少なくとも社会不適応者とはみなされていないから、見落とされているというのもあろうか。
アウトサイダーアートが地上最強の生物範馬雄次郎なら、

オカンアートは地上最強の母花園勇花みたいなもんだろうか。

追っても決して近づくことのできない、20世紀最大の現代アーティスト岡本太郎は、まさに逃げ水のような存在だった。
現代アートを志す若者たちは、こぞって岡本太郎を追いかけたが、そんな若者たちを嘲笑うかのように、追っても決して触れることのできない存在が岡本太郎だった。

だから自分は岡本太郎の追従者にはならない。
誰かの追従者になってしまった時点で、追従者は自分が追従している人物を超えられなくなってしまう。
だから自分は誰の追従者にもならない。
岡本太郎からも誰からも背を向けて、誰も通らない誰も見向きもしない、人道を外れた獣道を行くのが、アウトサイダーアートである。

自分には障害がある故、あくまでもアウトサイダーの立場で創作活動をしているが、見る者によっては所謂芸術に見えるらしい。
枠組みを何より嫌うアウトサイダーが、インサイダーアートの枠組みに嵌め込まれそうになることもある。
アウトサイダーアートは、自分を既存の枠に嵌めようとする、インサイダーアートとの戦いである。
枠に押し込められる発達障害者

今回の記事は前回の続きみたいなもんである。
本当は前回の記事で、いいたいことは全部言い切ったつもりではあったが、新たな疑問が生じてきたので、今回はそれを書きたいと思う。
要するに出産の後産みたいな残りカスみたいな記事と思ってもらえばいい。
前回は怒りに任せて勢いで書いてしまったが、今回はイカレた頭を冷やして(冷やしてもイカレた頭は治らないが)、何故善意の健常者と発達障害者の間に、齟齬が生じるのか、自分なりに考えてみた。
善意の健常者は、犯罪者や障害者などの社会不適応者が作った創作物が、所謂アウトサイダーアートと扱われ、インサイダーアートから締め出されるのは、健常者の傲慢ではないかと主張する。
一方の、作業所ですら馴染めない、社会不適応者の発達障害者である自分は、普通の枠に収まらない社会不適応者を、無理矢理普通の枠に押し込めるのは、健常者の傲慢だと主張する。
善意の健常者のいってることは、定型発達者中心の一般社会においては、正論なのだろうと思う。
しかし自分は一般社会に適応して生きる定型発達者ではない。
社会の枠組みからは完全にドロップアウトしている、作業所にすら馴染めない、社会不適応者の発達障害者である。
要するにヒャッハーしてる連中と同じくらい、社会不適応者だと思ってもらえばいい。

一般社会に適応できる定型発達者の善意は、一般社会に適応できない、社会不適応者の発達障害者にとっては、ときに無理解な善意の押しつけになることもある。
自分が反発したのも、恐らく相手の善意を、無自覚な無理解な善意の押しつけとみなしたからではないかと思う。
社会的強者は、自分の善意が社会的弱者から受け入れられないと、いきなり恫喝的な態度に豹変するが、社会的弱者から見れば、ヤクザの恫喝と何ひとつ変わらない。
社会的弱者には、社会的強者の善意を無条件に受け入れなければならない、社会的義務はどこにも無いのである。
自分にとっての普通とは、シンデレラのガラスの靴のようなものである。
原典のグリム童話では、シンデレラのガラスの靴が入らなかったふたりの姉は、指をチョン切ったり、かかとをチョン切ったりしてまで、ガラスの靴を履こうとするわけだが、まさにこれは自分の考える普通に他ならない。
よしんば靴が入ったとしても、シンデレラはガラスの靴を壊さないように、生きていかなければならないのである。
自分の考える普通とは、壊れやすく尚且つ壊れたら、その破片で自分を傷つけるガラスの靴である。
ディズニー版シンデレラではそのような残酷描写はオミットされているが、好意的に考えれば、そこまでして普通にこだわることもないんじゃないかという、時代の変遷とも見て取れる。
アウトサイダーアートは、犯罪者や障害者などの、社会不適応者が作った創作物の総称である。
だから汚部屋や過食嘔吐やリスカなども、記録画像や記録映像を撮っておいて、パフォーマンスとして発表すれば、それもアウトサイダーアートになる。
正直芸術かどうかも怪しい代物である。
正直大半のアウトサイダーアートは、その辺のおばちゃんが作った、もっさりした手芸品と変わらないからである。
その辺のおばちゃんが作った手芸品は所謂オカンアートと呼ばれてるが、大半が「いやげもの」と呼ばれる、生活空間の破壊力抜群の、ある意味最も現代アートに近いものと思われる。
オカンアート(一例) 呪いの人形?


キティちゃん?

ピカチュウ?

オカンアートの条件は、オカンが作った手芸品なら無条件にオカンアートとして認定される。
これらオカンアートが正規の芸術として認められなくても、論争になることはない。
ある意味最もお仕着せの芸術から、かけ離れた場外乱闘アートともいえる。
あまりにも身近過ぎて芸術評論の俎上にすら上がることはない。オカンは少なくとも社会不適応者とはみなされていないから、見落とされているというのもあろうか。
アウトサイダーアートが地上最強の生物範馬雄次郎なら、

オカンアートは地上最強の母花園勇花みたいなもんだろうか。

追っても決して近づくことのできない、20世紀最大の現代アーティスト岡本太郎は、まさに逃げ水のような存在だった。
現代アートを志す若者たちは、こぞって岡本太郎を追いかけたが、そんな若者たちを嘲笑うかのように、追っても決して触れることのできない存在が岡本太郎だった。

だから自分は岡本太郎の追従者にはならない。
誰かの追従者になってしまった時点で、追従者は自分が追従している人物を超えられなくなってしまう。
だから自分は誰の追従者にもならない。
岡本太郎からも誰からも背を向けて、誰も通らない誰も見向きもしない、人道を外れた獣道を行くのが、アウトサイダーアートである。

自分には障害がある故、あくまでもアウトサイダーの立場で創作活動をしているが、見る者によっては所謂芸術に見えるらしい。
枠組みを何より嫌うアウトサイダーが、インサイダーアートの枠組みに嵌め込まれそうになることもある。
アウトサイダーアートは、自分を既存の枠に嵌めようとする、インサイダーアートとの戦いである。
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